戦後、文房具がアメリ力を運んできた

「戦後」が始まっていた。

グリーンのカーペットのような芝生を、今の最筒裁判所のところにあった駐留軍ベースで塀ごしに初めて見た。芝生があんなにきれいだとは知らなかった。外の焼け跡と違って塀の中は別世界のようだった。僕のアメリカは、白いペンキとグリーンの芝生で始まった・ゲートに立っているMPの前を恐る恐る通り、ワイヤーフエンスにそって歩くとアメりカの銃いがした。なにがあの匂いを作っていたかが小学生の僕の好奇心をかきたてた。リグレーのジユーシーフルーツのチューインガムとペンキの匂いの混ざったものだと自分勝手に考えていた。

西町スクールのバザーの段ボール箱はアメリカ文房具の宝石箱だった。

そのアメリカの匂いは、麻布の西町スクールのバザーのために送られてきた段ボール箱を開けたときの匂いでもあった。

この西町スクールはのちに西町インターナショナルスクールと名前を変えて現在に至っているが、当時は、八畳の広さもない教室一つだけで、四人しか生徒がいなかった。僕は週に2回、放課後に渋谷から都電の三四番、金杉橋行で英語だけを習いに通っていた。

西町スクールの創立者の一人、と同時に校長、教師でもある松方種さんはアメリカのイリノイ州プリンシピア大学を出て—後に、僕は彼女の後輩になるーニューョークでアイビーリーグのーつのコロンビア大学の修士課程を終えて帰国した。彼女は当時の日本の教育の現場を見て、日本の将来を案じた。これからは国際性を持った若者が必要とされるであろうし、そのためには、その頃の教育方法にはあまりにも自由がなさすぎると考えた。ちょうど就学適齢期の子供を持った二人の母親と意気投合して、焼け残って接収されなかった自分のご両親の崖敷の一部分と、彼女に共鳴した二人の母親のうちの一人の家の部屋を使って男子生徒三人、女子生徒一人の枇搬西町スクールを始めたしかし、けっして資金に余裕があったわけではなく、アメリカの友人、支援者に、そのころ日本で足りなかったあらゆる物資、主に衣類と日用品を送ってもらい、生徒の親の家を会場にしてバザーを開いていた。僕はそのたびにアルバイトとして手伝っていた

特定商取引法表示 | 御利用案内 | プライバシーポリシー 
Copyright (c) 2010 (株)データ・プラクト All Rights Reserved.