ボールペンの歴史

鉛筆は軸の木が腐らない限り使える。芯は陶器のように粘土が釜の中で焼かれたものなので経時変化は起こりにくい。それに比較してボールペンの寿命はどうも二年ぐらいらしい。これはどこから出た数字かというと、最近マンハッタンの文房具屋と話していたら、税務署は二年在庫しているボールペンを帳簿から落とすことを認めているということを聞いた。すなわちシェルフ・ライフ(——貯蔵寿命——在庫商品が商品としての価値を保つ期間)は二年と考えられているのだ。

西町スクールがバザーを開催していたのは1950年代の初めのころだが、すでに使い古しのポールペンが入っていた。この時期がボールペンの歴史のうちでも最初のスランプだった。

ポールペンの特許はすでに1895年に申請されていたのだが、実質的な歴史は1930年代にハンガリーのブダペストで始まった。薬学を専攻したラチオ・バイロは催眠術師として活躍したが、のちに週刊誌の編集長の職についた。常日ごろ万年筆を書きにくいと思っていた彼は、ペン先にボールをとりつけてインクを送り出す機構の筆記用具を考案し、化学者の弟と簡単な試作品を作った。そのユニークさに注目したのが、その当時のアルゼンチンの大統領オーガスティン・ハストだった。

彼はアルゼンチンにバイロ氏を招待して生産を始めるよう勧めたがなかなか実現しなかった。しかし、ついに1940年に彼はアルゼンチンに渡り、失敗をくりかえした末、1943年に商品として市場に出した。この当時は「エターペン」(Eterpen)と呼ばれていた。

このペンに注目したのはアメリカ空軍のパイロツトで、サンプルをワシントンの補給部隊の主計総監のところに送って、同じものをアメリカ空軍で開発する必要性を説いた。国防省で興味を示したのは、高度の高いところでインクがもれないからであった。ボールペンは飛行士たちの戦闘においての筆記用具としては理想的だった。インクは速乾性で、気候の変化に影響されず、量も十分であった。戦時中だったのでアルゼンチンとは特許について話しあう必要がなく、アメリ力国内で生産することに決まり、これが本格的なボールペンの普及の引金になった。

バイロ氏は1944年にすでにアメリカで特許を取得して、二社に製造権を認めていたが、どちらも急いで生産するわけでもなかった。ところがシカゴの実業家レイノルズ氏がアルゼンチンを旅行中にボールペンを見つけて、特許に触れないように設計変更して製品化してしまった。彼は1945年にニューョークのギンベルズというデパートで売り始めたのだが、

ちようだ宣伝がよかったこともあり、長蛇の列ができて、その当時の価格で12ドル50セントで飛ぶように売れた。宣伝のキャッチフレーズは「水の中でも書けるペン」で、これは開発者がたまたま湿った新聞にいたずら書きをしていて、インクがにじまないことを発見して思いついたという。

しかしあまりにもブームになったために、数多くのメーカーが参入して過当競争になってしまい、1947年には一本15セントでも売れなくなってしまった。ちょうどこのころのボールペンが西町スクールへ送られてきたのではないかと思う。

記憶に残っているかたちはフィッシャー社製のものであった。数多くのボールペン・メーカーが西部か東部沿岸にあるうち、中西部シカゴの筆記具メーカーで知られているのはフィッシャー社とリンディ社くらいなので、ことによると僕の手にしたボールペンもレイノルズ氏と関係があったかもしれない。

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