アメリカ中から送られてきたその荷物の中に学校で使われる文房具も入っていた。
まず、なんといっても黄色い軸の鉛筆。だが、段ボール箱の中から真新しい鉛筆が出てくるのは稀で、いまから考えてみれば、おしりについている消しゴムはすでに固くなっていて使えないものが多かった。
消しゴムをとりつけている金具もすでにつぶされているものが多かったが、どうやら退屈した小学生がかみつぶしたもののようであった。
しかし、そのころの日本の鉛筆に比べれば削り、こちははるかになめらかで、削りたての鉛筆の先に鼻を当ててみると木の匂いは当時の日本の鉛筆にはない外国を思わせる新鮮なものであった。
今でもイエローペンシルの匂いをかぐと、当時の鉛筆が、西町スクールの裏の池に通じるところにあった大きな棒の木の蝉の鳴き声とともに想いだされる。
真鎗のような材質の王冠のついたものはミラドのブランドだったが、後にニューョークで取材をしていて偶然にある鉛筆メーカーのセールスマンと話をする機会があり、彼がミラドにまつわる貴垂なことを教えてくれた。
この鉛筆は第二次大戦以前は「ミカド」だったそうだ。
だが、これは敵性語のために変えなければならなくなり、そこで考えついたのが「ミラド」だった。これが最も経済的に変更できる解決策であったからだ。
MIKADOの、「K」のLを少しまげると、「R」になるのである。
この話はその後アメリカの文房具の歴史に詳しい別の人たちも話してくれたところをみると、文房具業界では有名なエピソードなのかもしれない。
戦後のH本の鉛筆はどちらかといえば暗い色が多く使われていた。
木の材質も今のものに比べるとかなり削りにくかった。
使い古しでも、鉛筆削りできれいに削ってあったアメリカの黄色の鉛筆は僕を強くひきつけた。
これがこのあとの長いイエローペンシルとのつきあいの始まりである。
